自分自身を忘れないという意味は自分の内に存在して生きている複数の我=エゴを監視し観察していることを指します。
岡のメモ
『自分自身』とは=私達が作ってしまった複数の我=エゴ=悪魔=鬼=心理的欠点=他人=の
ことを指します。
ですから
『自分自身を忘れない』ということは
私達が注意力の分割のワークを実践する時に
注意力を内側の主体に向けて、自分の中に存在して生きて活動している複数の我=エゴ=悪魔=鬼=他人=心理的欠点=を思い起こしていながら=
自分の我の為す思考・我の為す感情・我の為す気分・我の為す表情・我の為す態度・
我の為す行動・我の話し方・我の笑い方・我の歩き方・我の食べ方などなどを観察して
それらと同一視しないでいること=それが『自分自身を忘れないこと』です。
そして
この『自分自身を忘れないこと』
そのこと自体が、まさしく「内なる奥深い本質的存在」を忘れないことを意味していると
マスター・サマエルはここで明確に述べています)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
サマエル・アオン・ベオールの言葉です。
「自分の本質的存在を忘れない」と言う時、機械・ロボットを肯定しようとしなさいと
私は主張しているのではありません。
そうではなく
"no olvidarse de Sí Mismos" significa no olvidar a su Ser Interior Profundo.(スペイン語原文)
Do not forget Themselves" means not forget his Deep Inner Being. (英語原文)
日本語和訳
「自分自身をを忘れない」ということは、
「内なる奥深い本質的存在」を忘れないことを意味します。
そのことに声高にふれていますし。革命的な実験心理学に照らして「内なる奥深い本質的存在」
を忘れないことを意味します。 それを理解すべきです。
サマエル・アオン・ベオールの言葉 (終わり)
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(岡注*・・・・・・・
自分自身とは=私達が作ってしまった複数の我=エゴ=悪魔=鬼=心理的欠点=他人=のことを指します。
ですから自分自身を忘れないということは
私達が注意力の分割のワークを実践する時に注意力を内側の主体に向けて自分の中に存在して生
きていて活動している複数の我=エゴ=悪魔=鬼=他人=心理的欠点を思い起こしていながら=
自分の我の為す思考・我の為す感情・我の為す気分・我の為す表情・我の為す態度・我の為す行
動・我の話し方・我の笑い方・我の歩き方・我の食べ方などなどを観察して
それらと同一視しないでいること=それ自体が、まさしく 「内なる奥深い本質的存在」を忘れ
ないことを意味していると
マスター・サマエルはここで明確に述べています)
(岡のメモです)。
ノーシスの秘教ワークの中で
1.私達のエゴの溶解のために
2.不可欠なワークが『印象の変換』のワークです。
1982年から日本にノーシスコースを開催したメキシコ人のMさんと夫人の日本人のM子さんは1987年まで
日本でインストラクターとして働いていましたが一度もこの重要な『印象の変換』のワークを教えていませんでした。
つまり
Mさんも、M子さんも、マスター・サマエルが教えている重要の『印象の変換の最初の意識ある
ショック』のワークを
・知らないでいたので
・実践もしていなかったので
・日本で教えることがなかったのですね。
さらに、Mさんも、M子さんも『注意力を主体・客体・場所の三つの場所に分割する』ワークを
・知らなかったので、
・実践もしていなかったので
・日本で1982年から1987年の日本滞在期間中には『注意力の分割』のワークを教えていませんでした。
したがって
日本人のノーシスインストラクターも、ノーシス学徒も全員
『印象の変換の最初の意識あるショック』のワークを知らず、
どのようにして印象を変換するかとその方法も1995年まで知らないでいたので、
毎日、新しいエゴを作ってしまっていました。
さらに古いエゴを強化し続けていました。
これが日本に於けるノーシスの伝達実態とノーシス学習実態とノーシスの実践状態だったんですね。
そういうわけでしたので
日本ノーシスインターナショナルのノーシスのインストラクター達とノーシスの生徒たちはエゴとエゴでぶつかり合ってしまって1995年以前に既に分裂してしまいました。
私がノーシスコースに初めて参加したのが1985年でしたが、すでにその時には、日本ノーシスインターナショナルのノーシスのインストラクター達とノーシスの生徒たちはエゴとエゴでぶつかり合ってしまって分裂してしまいました。
多くの人がノーシスの伝達の道から脱落して今日(2014年の3月)の惨憺たる有様を呈しています。
本題に入ります。
『注意力の分割』のワークを私達が実践していないと私達は正しい自己観察も実践していません。
正しい自己観察を私達が実践していないと
1.自分のエゴと同一視してしまいっています⇒エゴのままに発言し行動するエゴのロボット人間です。
又、その時は私達は同時に
2.外側のすべてのもの・状況とも同一視してしまって、魅惑されて意識が眠っている状態で⇒意識の眠っている状態=催眠状態です。
そのような状態では
五感を通じてマインドに入ってくる外側の印象を私達は変換していないので
私達は毎秒毎瞬間エゴを新しく作ってしまっています。
エゴの溶解など私達は到底できないのは当然で、日々意識がますます眠りこけていってしまっているんですね。
結論は今の私達は
すべてのものを同一視して、魅惑されて、意識が眠っている状態の人間機械の状態です。
私達が
この人間ポットの状態から脱するためには、
1.先ず最初に意識を目覚めさせるワークを開始して根気強く粘り強く実践し続ける必要があるのですね。
2.意識を目覚めさせるためのワークが『注意力の分割』のワークです⇒エゴを溶解させれば鮮明に意識は覚醒します。
3.この『注意力の分割のワーク』を正しく実践できている時、
4.私達は初めて『正しい自己観察のワーク』も為しているわけです。
5.自分の内側の考え・感情・気分とも同一視しておらず
6.外側のあらゆるものとも同一視していない時に
7.正しい自己観察が成立しています。
この時に
8.私達の解放されている3%のエッセンス=3%の意識=3%の本質的存在=3%のビーイング=が目覚めています。
9.この解放されている意識が目覚めている状態を
『自意識状態』と秘教的ノーシスでは呼んでいます。
『自己想起状態』と秘教的ノーシスでは呼んでいます。
『第三の意識状態』と秘教的ノーシスでは呼んでいます。
私達がこの自意識状態=自己想起状態=第三の意識状態=にある時にのみ
私達は五感を通じてマインドに届く印象を変換しています。
私達が五感を通じてマインドに入ってくる外側のすべての印象を変換している時は
1.私達は新しいエゴは作っていません。
2.私達は古いエゴも強化していません。
3.私達はすべての印象を高次的なエネルギー・光・意識・愛・慈悲・癒し・智慧等へと変換しています。
4.私達は『自分の内面を変換しています』=人生を肯定的に変換しています。
5.私達は『自分の人生を正しい方向へと変換しています』
6.私達は『意識あるワークを為しています』
7.私たちは『正しい努力を為しています』
8.私達がこの自意識状態=自己想起状態=第三の意識状態=にない時は
私達は
・『役に立たない機械的なワーク』をしています。
・『意識の眠った状態でワークしているのでワークは役に立ちません』
・『無駄なワーク』をしています。
・『無駄な努力』をしています
9.私達はこの自意識状態=自己想起状態=第三の意識状態=でワークを為した時に
・初めて、正しく性のワークを為しています。
・正しく精液をクリスティックエネルギーへと変換しています。
・初めて意識のエネルギーを蓄積して深い瞑想へと入っていける準備をしています。
・初めて神との語らい=正しい祈りを為しています。
・初めてエゴ溶解の正しいワークを為しています。
このように
1.注意力の分割のワーク
2.自己想起のワーク
3.自己観察のワーク
4.印象の変換のワーク
5.自意識状態=自己想起状態=第三の意識状態=は重要なので
ここでは『印象の変換』についての
サマエル・アオン・ベオールの印象の栄養の講義録を記載します。
印象の栄養 EL ALIMENTO DE LAS IMPRESIONES サマエル・アオン・べオールのベネズエラ講義録NO28
講演
有機体内に入る栄養は三つのカテゴリーに分類されます。
ひとつめのタイプは「食物」と名づけられます。
口自体から入る栄養のために、それらの活力を変換しうる媒体があります。
胃のことです。
胃がなければ一種類めの栄養は変換できないでしょう。
それでも口から入る栄養は最重要ではありません。
消化によって栄養が変換される方法はよく知られています。
活力が血に保管されるのは疑いなく、血は器官や臓器をすべて管理します。
そうであっても、しばらくは食べずにいられる人もいます。
マハトマ・ガンジーはなんと四十日間も食べずにいられました。
さらに二、三ヶ月食べずにいました。
こうして食物というのは最重要な栄養ではないのです。
2種類めの栄養は「プラーナ」です。
「プラーナ」は肉体内に酸素と共に入ります。
「プラーナ」は呼吸器から入るものであり、鼻から入る栄養を変換する特別の器官が存在するのは確かです。
ですから空気は肺によって(自然に)酸素に変換され、この酸素(「プラーナ」)は後に血流に保管されます。
呼吸は、口から入って胃に行く栄養よりも重要です。
なぜならすでに言ったように、食べずに一ヵ月近く耐えられても、呼吸を止めたままではあまり長く耐えられないからです。
ふつう1、2分息を止めて耐えられますし、3分止められる人もいます。
(トレーニングによって)私も四分以上息を止めたままでいられるようになりましたが、疑いもなくこのわずかな時間を越えると、
息をしないなら死にます。こうして呼吸は確かに肉体の食物よりも重要です。
そして最後に三種類めの栄養が存在しますし、事実呼吸や食物よりもはるかに重要です。
声高に印象のことを言っています。
疑う余地なく、印象が存在しないなら一秒も生き長らえることはできないでしょう。
印象を受けずに一秒も生きられません。
私達の有機体は、中でもとりわけ印象から栄養を取ります。
もし空気が肺と血に印象を与えないなら、生きられないでしょう。食物が胃と腸管に印象を与えなくても、やはり生きられないでしょう。
ですから印象は基本的なのです。
あいにく呼吸と口から入る一つめの栄養とは違って、私達は(この場合)印象の「消化」器を持っておらず残念です。
空気には肺があり、食物には胃がありますが、印象にはどんな器官がありますか。
印象はマインドに移り、そのことは否定できませんが、印象を「消化」できる方法がありません。
印象の「消化・変換器官」がないのです。
人生の出来事は、みな印象という形でマインドに到達します。
事件はすべて印象という形で脳に到達します。
喜び・悲しみ・希望・絶望・問題・悩み・心配など。
それらは印象という形でマインドに到達します。
いかなる環境も、いかなる出来事も、それがどれだけ取るに足らないものであれ、
印象という形でつねにマインドに到達します。
もう一度言いますが、
あいにく私達は印象の「消化」器官を備えていないので、
印象が「心理的集合体」すなわち「我」に変わるのも無理はありません。
(たとえば)
もし侮辱する人から受けとる悪い印象を「消化」しないなら、そのときその印象は私達の中で復讐の「我」に変わります。
もし一杯のワインがもたらす印象を「消化」しないなら、明らかにそんな印象は酔いの「我」に変わります。
もし異性がもたらす印象を「消化」しないなら、まさにそれゆえに色欲の「我」に変わるのは疑いありません。
もしマインドに到達する財産と関係した印象を「消化」しないなら、明らかにそんな印象は強欲の「我」に変わるかもしれないのです。
ですから印象を消化しないのは、「我」を創造することに等しいのです。
「消化」しない印象は、もう一度言うと新たな「我」に変わります。
ですから前世から持ちこした「我」を持っているのみならず、
最悪なことに毎日新たな「我」を創造しつつあり、それは悲しむべきことです。
「我」を創造するのを私達はやめないといけません。
私達が印象を「消化」してはじめてそれが可能となります。
では
印象を「消化」する方法は?
どのようにして?
いかにして?
印象を何か違ったものに変換する方法は?
それは可能でしょうか。
確かに可能です!
どうやって?
意識によって。
「意識」と呼ばれるものを印象とマインドの間に介入させるなら、印象は「消化」されます。
印象そのものは「水素48」、かなり重い水素です。
意識によってそれを消化すると「水素24」に変換し、アストラル体の栄養として役立ちます。
その水素24は今度は「水素12」に変換でき、メンタル体の栄養となります。
そして最後にメンタルな水素は、「消化」すると「水素6」に変換し、コーザル体の栄養となります。
こうして「水素48」を本質的存在の高次的実在体の栄養に変換するため、印象を「消化」したほうがよいのです。
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普通、印象はマインドを傷つけ、マインドはそのとき外界からの衝撃・影響に反応します。
殴られれば殴り返します。
侮辱されれば侮辱します。
飲むよう強くうながされるなら飲みます。
こういう具合です。
つねにマインドは外界からの衝撃・影響に反応します。
そんな反応は回避すべきであり、マインドと印象の間に意識が介入してはじめて回避できるでしょう。
意識を利用して、印象とマインドの間にそれを介入させることを可能にする、なんらかの方法・テクニック・行法があるのでしょうか?
印象を受け取るのがマインドではなく意識であるような、そういう意識の利用を可能にする、なんらかの鍵が存在するのでしょうか?
なぜなら
意識が印象を受け取るとき、必然的にそれを「消化」し、何か異なったものに変換するからです。
しかし
印象を受け取るのが意識ではなくマインドである時、マインドは外界からの衝撃・影響に機械的に激しく反応します。
では
意識を利用する方法は?
印象を受け取って変換するのが意識(そしてただ意識のみ)であるよう、意識を役立たせる方法は?
皆さんにとてもシンプルな鍵を教えましょう。
原文英語 I am going to tell you the Key:it is very sinmple:
We masut never forget Ourselves Our Own Being.
私はあなたにその鍵を教えます。
その鍵はとてもシンプルです。
私達は
決して
1.『自分の本質的存在』と
2.『自分自身』=(自分の中にあって生きて活動している複数の我=エゴ=沢山の悪魔
=大勢の他人=沢山の鬼=複数の心理的欠点)
を忘れないことです。
なぜなら
侮辱する人の前で自分自身の内なる本質的存在を忘れるなら、結局は相手を侮辱するからです。
一杯のワインを前にして、『おのれの内なる本質的存在』 と 『自分自身』(自分の中にあっ
て生きて活動している複数の我=エゴ=沢山の悪魔=大勢の他人=沢山の鬼=複数の心理的欠
点)
を忘れるなら、結局は酔っぱらってしまいます。
異性の前で、『おのれの内なる本質的存在』 と 『自分自身』(自分の中にあって生きて活動
している複数の我=エゴ=沢山の悪魔=大勢の他人=沢山の鬼=複数の心理的欠点)を忘れるな
ら、
結局は不倫し、密通し、姦淫してしまいます。
もし、あなたが
1.知覚を研ぎすまして油断なく警戒し(=目覚めた意識状態でいる)、
2.変わったこと、目新しいことへ警戒状態(=意識の目覚めた状態で)生きることを学ぶ時、
3.一瞬一瞬たえず自分自身(自分の中にあって生きて活動している複数の我=エゴ=沢山の悪
魔=大勢の他人=沢山の鬼=複数の心理的欠点)を忘れないでいる時、
疑う余地なくあなたは意識を目覚めさせて行きます。
もしも、あなたが
侮辱する人の前で、
『自分自身の本質的存在』を忘れないなら、
『自分自身』(自分の中にあって生きて活動している複数の我=エゴ=沢山の悪魔
=大勢の他人=沢山の鬼=複数の心理的欠点)を忘れないならば、
あなたはその邪悪な印象を別のフォースに変換します。
その時、あなたはアストラル体の強化に役立つ水素24、メンタル体を養う水素12、コーザル体を養う水素6に
それらの悪い印象を変換します。
つまり侮辱する人の罵詈雑言を異なった力に変換します。
もし
一杯のワインの前で、『自分自身』(自分の中にあって生きて活動している複数の我=エゴ=沢
山の悪魔=大勢の他人=沢山の鬼=複数の心理的欠点)を忘れないなら、その印象(水素48)をさらに繊細な水素24、水素12、水素6に変換します。
もし
かなりの大金の前で、『自分自身』(自分の中にあって生きて活動している複数の我=エゴ=沢
山の悪魔=大勢の他人=沢山の鬼=複数の心理的欠点)を忘れないなら、その印象を水素24、水素12、水素6に変換します。
ですから,
『自分自身』(自分の中にあって生きて活動している複数の我=エゴ=沢山の悪魔
=大勢の他人=沢山の鬼=複数の心理的欠点)を忘れないことは、賢明な意識操作を可能にする鍵なのです。
あなたが『自分自身』(自分の中にあって生きて活動している複数の我=エゴ=沢山の悪魔
=大勢の他人=沢山の鬼=複数の心理的欠点)を忘れない時、「意識」と呼ばれるものを
マインドと印象の間に置きます。
外界からやって来る印象を受け取るのが「意識」であるならば=それはすばらしいことです。
なぜなら
意識は、印象を何か異なったものに変換できるからです。
1.創造的な要素。
2.本質的存在の最高の要素。
3・「チャクラ」の発達に役立つダイヤモンドのように堅固な力。
4.精神構造に存在するある能力の発達に役立ついろいろな力。
等に変換できるからです。
こうして現在私達の持っている「我」はみな未消化、未変換の印象の産物であることを知る必要があります。
それは嘆かわしいことです。
あいにく人々は決して『自分自身』(自分の中にあって生きて活動している複数の我=エゴ=沢
山の悪魔=大勢の他人=沢山の鬼=複数の心理的欠点)を思い起こしません。
そのために
印象はマインドに到達して、変換されないまま完全にマインドにとどまり、(当然のことながら)「心理的集合体」=「我(複数)」を生じます。
私達は『我』を溶解する必要がありますが、そのうえ新たな『我』を創造しない必要もあります。
「我」をすべて溶解するというぜいたくを味わえる人もいるでしょうが、
もし
彼らが『自分自身』(自分の中にあって生きて活動している複数の我=エゴ=沢山の悪魔
=大勢の他人=沢山の鬼=複数の心理的欠点)を忘れるなら、また新たな「我」を創造します。
(それは重大な問題です)。
『自分自身』(自分の中にあって生きて活動している複数の我=エゴ=沢山の悪魔
=大勢の他人=沢山の鬼=複数の心理的欠点)を思い起こしていることは興味深いことです。
あなたが『自分自身』(自分の中にあって生きて活動している複数の我=エゴ=沢山の悪魔
=大勢の他人=沢山の鬼=複数の心理的欠点)を思い起こして時、隣人たちの力とは異なった力
をもたらします。
そのさまざまな力は、人を他人とはまったく異なった人物にしてくれます。
こうしてそんな力を創造する人が別人である、生命力すら違うことを知るのは興味深いです。
住みにくい荒涼とした土地に、まともな食料も与えず、劣悪な環境などの条件下で二人の人物を
置き去りにするなら
1.ひとりは決して『自分自身』(自分の中にあって生きて活動している複数の我=エゴ=沢山
の悪魔=大勢の他人=沢山の鬼=複数の心理的欠点)を思い起こすことなく機械的な生活を送ります。
2.もうひとりは一瞬一瞬常に『おのれの内なる本質的存在』を思い起こし、『自分自身』(自分の中にあって生きて活動している複数の我=エゴ=沢山の悪
魔=大勢の他人=沢山の鬼=複数の心理的欠点)を思い起こしていています。
前者はまもなく死に、
後者は住むのに適さない環境にもかかわらず生き長らえることを
皆さんは絶対確信できます。
後者は他人とは異なった力に包まれているからです。
解放の問題全体は変換にもとづき、変換の基礎は犠牲です。
たとえば(蛇の卵であれ鳥の卵であれ)卵を観察すれば、発達する可能性をそこに秘めていることがわかります。
そんな可能性は変換によって事実となります。
冬のあいだ私達を暖めてくれる暖炉の火は変換の産物です。
私達における消化は、私達が存在できるようにしてくれる変換過程全体です。
肺内での空気変換は別の変換過程であり、
私達が心理的に自分を変換したいなら、私達は印象も変換する必要があります。
もういちど言います。
(マインドに到達する)人生の出来事は、みな印象という形で届きます。
このルミシアル(神殿)に集まっている皆さんに私は話していますが、皆さんのマインドに到達しているものは何ですか?
印象、一連の印象です。
皆さんは男性をひとり見て、彼の話すことを聴きます。
それらの印象がマインドに到達しています。
一人の男性が皆さんに話をして、秘教的な教えを説いているのを見るという印象。
私の話しているたった今、この印象を「消化」していると皆さんは確信していますか?
もう皆さんは受け取っているものを「消化」する過程にありますか?
それともその過程にありませんか?
もし目の前でサマエル・アウン・ベオールが皆さんに話をしているのを見るという、
この印象の「消化」つまり変換過程にないなら、哀れにも時間を浪費しています。
どうしてでしょう?
なぜなら印象を「消化」変換していないからです。
「消化」しないなら変換しません。
変換の科学には印象の「消化」というものが存在します。
この印象を「消化」するために皆さんはどうしますか?
私がここで講演をしているのを皆さんは見ていますが、
印象を受け取るのは本質的存在なので、『自分自身の本質的存在』と『自分自身』(自分の中に
あって生きて活動している複数の我=エゴ=沢山の悪魔=大勢の他人=沢山の鬼=複数の心理的
欠点)を忘れてはなりません。
そして
教えをすべて本質的存在に浸透させ、本質的存在に到達させるのだという
熱い求道心をもって聴くべきです。
印象を「消化」すれば、もっとよく教えが理解できるでしょう。
そうしないなら時間を浪費していることになり、講演はまったく無駄でしょう。
したがって行動から始めるべきです。
なぜなら話を聴いても行わない人は、自分の姿を鏡に映して見た後、背を向けて引きさがる人に似ているからです。
ですから、話を聴くだけでは不十分です。
話を消化しなければなりませんし、まさしくそれが基本なのです。
ごらんください、「印象」と呼ばれるその出来事がどれだけ重要なのか!
印象がなければ一秒も生きられません。−秒の千分の一も。
ですから
印象を何か異なったものに変換すべきです。
力、
光、
火、
調和、
美に...。
しかし
印象を変換しないなら(もういちど言うのはうんざりですが、くり返し言いますと)
ただ単に新たな「心理的集合体」、新たな「我」に変わるだけです...。
皆さんは、もっと思慮深くなる必要があります。
本当に私達は何者なのでしょうか?
印象を「消化」しないで新たな「我」を一瞬一瞬たえず創造しているように、「心理的集合体」の操る単なる機械にすぎません。
私達はきわめて活動的な世界に生きています。
この世界では為すと全員が信じていても、誰も何一つすら為しません。
雨が降るように・・・・・・
雷が鳴るように・・・・・・
すべては私達に起こります。
どうして?
それは単に本質的存在を具現していないからです。
本質的存在のみが為すことができます。
本質的存在は為します。
真実の人間とは本質的存在なのです。
しかし
機械が作動するなら、本質的存在ではないものが作動します。
「脳」と呼ばれる驚くべきコンピューターでプログラムされたロボットが作動し、自動的に機械的に操縦されています。
その場合、為しているのではなく作動しています。
(為すことと作動することは別問題です)。
どんな機械も作動し、動き、歩き、機能をはたします。
なぜなら
それは機械であり、機能をはたすべくプログラムされているからです。
しかし為すことは別です。
人間だけが行うことができます。
真実の人間とは[本質的存在=The Being]なのです。
真実の人間=本質的存在と機械とを区別しましょう。
(機械は本質的存在ではありません)。
もういちど言います。
「知的動物」はプログラムを組まれたロボットで、その脳はすばらしいコンピューターです。
自分の生命を維持するコンピューター、まったく正確に数学的に計算するコンピューターで、視覚波動と音波、外界と内界を記録して自己補給します。
すばらしい「優秀な」コンピューターですが、ただのコンピューターにすぎません。
そのコンピューターの後に肉体が来て、コンピューターは行き来などするため肉体を利用します。
そんなコンピューターは本質的存在ではなくエゴの手中に落ちてしまっています。
エゴは「未消化」の多くの印象の産物です。
その場合ここ私達の生きるこの苦界で作動するのは、スーパーコンピューターに起因する機械です。
ここで作動しているのは、本質的存在ではなく機械です。
機械は人間のようであり、本質的存在は本質的存在だと言うことができます。
しかし
「人生」と呼ばれるものは本当に何ですか?
確かに映画のようです。
そうです。最期が来ると、その映画の出発点にもどり、あの世へと映画を運び去ります。
このエゴをまとって戻ってくる時、回帰するとき映画をたずさえて来ます。
新たな有機体を再構築すると、生というスクリーンに映画を再上映します。
では何を上映するのですか?
人生です。
どのような?
例の人生=前世と同じ人生=過去生と同じ行為をくり返します。
映写するものはすべて実際に脳に(誕生したときから)プログラムされています。
したがって私達はプログラムされたロボットなのです。
《本質的存在はその悲劇のすべてにひとつも干渉せず、口を出しません。
私達ひとりひとりの本質的存在は「天の川」を自由に行動します。》
ここ人生というこの苦の「谷」に、肉体をまとった山ほどの亡霊たちは存在し、生きます。
ではそれらの有機体は何を為すのですか?
何も!
脳(ここでは肉体の脳ばかりか知的脳、感情脳、運動脳という三つの脳のことも言っています)に保管されたプログラムどおりに機械的に行動します。
そして私達が家賃を支払ったり衣服を購入したりするお金を稼ぐためここで苦しみ、苦労し、涙を流している問、
本質的存在は何をしますか?
本質的存在は「天の川」で幸福に暮らし、自由に行動します。
それでは私達の送るこの苦しみに満ちた人生とは何なのですか?
まったくの夢、はかないもの!
この世は「マーヤー」、無常で、なんの価値もないとヒンドゥー教徒が言うのももっともです。
もういちど言いますが、真実の人生を送る必要があります。
なぜならまだ送っていないからです。
皆さんの中で真実の人生を送っていると思う人はいますか?
皆さんの中で誰が真実の人生を送っていますか?
真実の人生を本当に送っていると私に答える人はいません。
ここで私が目にするのは動く機械、プログラムされた機械、ロボット、それだけです。
もちろんロボットであることをやめる必要が常にありますし、それが可能です。
しかし
そのために「心理的集合体」をすべて取りのぞく必要があるのは言うまでもありません。
ですから
もうおわかりのように「心理的集合体」を取りのぞかねばなりませんが、このことを知るだけでは不十分です。
新たな「集合体」を創造しないようにワークする必要があります。
印象を「消化しない」時に、心理的集合体を日々創造してしまっています。
新たな「我」を創造しないよう印象を「消化」し、異なった力に変換する必要があります。
現在私達の持っている「我」のもととなった古くからの印象を「消化」する必要もあります。
反省、自省し、取りのぞくことでそれが可能となります。
(習癖、低級感情、否定的思考、堕落本能、性的虐待等という形態で)機械の五つのシリンダーに保管されている古くからの印象を「消化」する時に、
それらの「非人間的要素」が崩壊するのは明らかです。
ですから
マインドに到達する新たな印象だけではなく、古くからの印象も「消化」する必要があります。
そして(もう一度はっきり言っておきますが)
一瞬一瞬たえず(正しく)自己観察しながら(第三の意識状態になって)印象を「消化」する必要があります。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
必要なので例をあげましょう。
妻が別の男性と浮気しているのを、嫉妬深い夫が突然発見したとしましょう。
もちろん嫉妬の「我」がそこで飛び出して、怒りだしました。
どうすべきですか。(明らかに「我」を発見したら理解せねばなりません)。
再現の法則によれば過去生で同じ三角関係があったのです。
ですから
自分の感じるそれらの嫉妬は、「未消化」の変換されていない印象のせいです。
もし
後であの印象を「消化」しようとするなら、いわば何か違ったものに変換しようとするなら、
もし
反省によって嫉妬は馬鹿げており、本当に無意味だという結論にあなたが到達するなら、
その時にあなたは古代に由来するその悪い印象を「消化」します。
その「消化」をする時、あなたはエゴ崩壊の最高の可能性があります。
「未消化」の印象の産物であるそのエゴを崩壊させるよう、ただ(デビクンダリニー・シャクティへの)嘆願が足りないだけでしょう。
そしてついにその嫉妬のエゴは粉々になります。
仮に不足分のお金を返そうとしないので、別の男性と喧嘩するとしましょう。
(疑いもなく「未消化」の印象という問題です)。
もし
集金に行った時に債務者がお金を支払おうとしないので、大いに不快になり、その紳士と喧嘩したいと感じるなら、その場合、あなたはじゅうぶんに物分かりのよい態度をとるべきです。
そして(あなたは帰宅してから)瞑想し、安らぎにひたって反省し思慮深く分析することで、その悪い印象を「消化」するのです。
再現の法則がそこで働いたのは疑いなく、同じケースが生じたのです。
(その同じ男性)に一定量のお金を貸したのに、返してくれませんでした。
そして以前同じケースが生じ、その後同じことが起こり、いつも同じことが起こりました。
そのために、その紳士に対する憎しみの「我」をあなたはつくってしまいました。
今では(ひとつの「我」に変わった、大昔に由来する)あなたのその悪い印象を完全に「消化」する必要があなたはあるでしょう。
あなたはお金というものは虚しくつまらないもので、最期にはあの世に1円も持っていけないことを理解し、反省を通して「その印象を消化」する必要があるでしょう。
すでにそのことを意識したとき、そのエゴ(「未消化」の一連の印象の産物に他なりません)を崩壊させるようあなたは自分のデビクンダリニー・シャクティに嘆願します。
そうすればもちろん聖なる母はエゴを粉々にし、あなたはその悪い印象から解放されるでしょう。
あなたの「我」はすべて未変換、「未消化」の印象の産物にすぎません。
そんな
あなたの「未消化」の印象を崩壊させると、
印象というあの力は何か別のもの、つまり水素24、12、6に変換し浄化されます。
ですから
過去と現在の印象は宇宙的力に変換すべきです。
私達自身の『本質的存在』と『自分自身』(自分の中にあって生きて活動している複数の我=エ
ゴ=沢山の悪魔=大勢の他人=沢山の鬼=複数の心理的欠点)を忘れない時に、これは可能です。
1.『本質的存在=The Being』 と 『自分自身』(自分の中にあって生きて活動している複数
の我=エゴ=沢山の悪魔=大勢の他人=沢山の鬼=複数の心理的欠点)を忘れない時。
2.知覚を研ぎすまして警戒し、変わったこと、目新しいことに警戒状態で生きる時。
その印象は何か別のものに変換します。
全印象(=すべてのエゴ)をどうにかして変換するなら、本当の福者(the blessed)でしょう。
なぜなら
本質的存在は福者にとどまり、福者は本質的存在にとどまるからです。
そのとき真の生をつかむでしょう。
そのとき確かに為すことができるでしょう。
本質的存在を具現しているからです。
今の私達を見ておわかりのように、私達はプログラムされたロボットにすぎません。
「消化」されないそれらの印象は三つの脳に保管され、生涯をつうじて一瞬一瞬たえずくり返されます。
《それが再現の法則のしくみです。》
1.昔からの印象のくり返し
2.機械であること、
3.ロボットの役をすること、
4.本質的存在を具現していないこと、
5.そのように(亡霊のように)この「涙の谷」で生きをこと
が楽しいと皆さん思いますか?
そのような生を送る価値があると皆さん思いますか?
それでは私達は何なのですか?
哀れな亡霊、過去の古い印象によってプログラムされたロボットです。
「消化」されなかった過去生の印象はすべて三つの脳に保管されているので、現在、機械的にくり返されます。
したがって
私達は本物のロボットみたいであり、ロボットであり、この「涙の谷」でエゴに操られて機械的に=自動的に動きます。
あなたはいつまでロボットのまま生きようとするつもりですか?。
何年何月何日まで。
親愛なる皆さん、このことをよく考えてください。
ロボットであるのは本当に残念だからです...。
講演は以上です。
さてこの教えを終える前に、ご質問のある方はご遠慮なくされたほうがよいでしょう。
意見のくい違う方は、そのわけをおっしゃってください。
★ 印象を変換して水素48から水素24に、それから水素12、最後に水素6に進むとき、つづいて水素6から水素3には進めないのですか?
★ 最高の実在体を養うため確かに進めますし、水素1にすら到達できます。
アストラル体・メンタル体・コーザル体を創造出来ます。
さらに、
ぜいたくにも四つのカーヤ(四身)をも創造できます。
四つのカーヤとは
・ニルマナカーヤ(応身)
・サンボガカーヤ(報身)
・アーディカーヤ(本初身)
・ダルマカーヤ(法身)
のことです。
明らかに、その種の乗り物を養うのに必要な極上の水素は、まさにここ、私達の生きるこの物質界から発生せねばなりません。
印象を変換して、水素48を段階的に変換して生じさせねばなりません。
★ マスター。印象を「消化」することは、単に心理的な態度にすぎないのですか。それとも「私はここにいる。」と考え、心のなかでその思考を保つことなのですか。
★ もしあなたが「私はここにいる。」と言うなら、誰がそれを言っていますか?
単にロボットが言っているのです。
「確かに私はここにいる。」とロボットは言います。(そこがロボットたるゆえんです)。
そういう問題ではなく、
自分自身の本質的存在を忘れないという問題です。
本質的存在はふつう「天の川」にすんでいます。
目下のところロボットに具現していません。
エゴと本質的存在は相いれないからです。
本質的存在を忘れないという問題であり、ロボットを肯定するという問題ではなく、
本質的存在を肯定するという問題なのです。
何か他にご質問は?
★ 尊敬すべきマスター。印象を「消化」できるのは人体つまり機械なので、肉体を去った人は印象をどうやっそ「消化」するのですか?
★ では肉体を去った人とロボットの問題とはどう関係があるのですか?
★ それはまぎれもなく私の質問です...。
★ いいえ、私の話していることの「こちら側」の印象に属します。
それとも実はあなたはたぶん理解していないのでは。
たとえば印象とはその機械装置を見ることです。
印象とはあなたの飲食物であり、感覚を通してあなたのマインドに到達するものです。
そういったものはみな印象です。
印象とは存在すること、生きることです。
印象とは喜びをもたらすものです。悲しみをもたらすものです。私達に心配をもたらすものです。野心をもたらすものです。 希望をもたらすものです。絶望をもたらすものです。
そういったものはすべて印象です。
肉体を去った人たちはこの「茶番劇」にどう関係があるのですか?まったく無関係ですね。
印象を変換せねばならないと言うとき、それは道具をひとつ利用せねばならないことを意味します。
何を?
「意識」をです。
しかし
「意識」とは何ですか?
なぜ存在するのですか?
「意識」は本質的存在に属しています。
ですから、
自分自身の『本質的存在』を忘れない時に、明らかに「意識」が機能しています。
自分の『本質的存在』を忘れないのは、すばらしいことです。
なぜ「堕天使」は存在するのですか?
一瞬自分の本質的存在を忘れたからです。
まっ逆さまに奈落に転落するのに十分すぎる時間です。
「自分の本質的存在を忘れない」と言うとき、機械・ロボットを肯定しようとしなさいと私は主張しているのではありません。
そうではなく
"no olvidarse de Sí Mismos" significa no olvidar a su Ser Interior Profundo.(スペイン語原文)
Do not forget Themselves" means not forget his Deep Inner Being. (英語原文)
日本語和訳
「自分自身をを忘れない」
(自分の中にあって生きて活動している複数の我=エゴ=沢山の悪魔
=大勢の他人=沢山の鬼=複数の心理的欠点)ということは、
「内なる奥深い本質的存在」を忘れないことを意味します。
(岡注*・・・・・・・
自分自身とは=私達が作ってしまった複数の我=エゴ=悪魔=鬼=心理的欠点=他人=のことを指します。
ですから自分自身を忘れないということは
私達が注意力の分割のワークを実践する時に注意力を主体に向けて自分の中に存在している複数の我=エゴ=
悪魔=鬼=他人=心理的欠点を思い起こしていながら=自分の我の為す思考・我の為す感情・我の為す気分・我
の為す表情・我の為す態度・我の為す行動・我の話し方・我の笑い方・我の歩き方・我の食べ方などなどを観察して
それらと同一視しないでいること=それはまさしく 「内なる奥深い本質的存在」 を忘れないことを意味していると
マスター・サマエルはここで明確に述べています)
そのことに声高にふれていますし。革命的な実験心理学に照らして「内なる奥深い本質的存在」を忘れないことを意味します。 それを理解すべきです。
何か他にご質問は?
★ 尊敬すべきマスター。本質的存在を体験したことがなく、この種の研究をいちども受け入れなかった人は、おのれの内なる本質的存在を忘れずに本質的存在を再確認するため、どういう心理的態度をとるべきですか。
★ 感受性が強くなるよう、パーソナリティーはますます受動的になるべきです。
感受性が強くなる時に、高等感情センターを通してだんだん本質的存在を感じていきます。
それで聖書にこう書いてあるのです。「心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです...」〔『マタイ』5:8〕。
頭脳による理解よりずっと高尚な感情的な理解があるよう、心を清めなければなりません。
頭脳活動がある時、それがどれだけすばらしくても感情的な理解の前ではきわめて貧弱です。
感情的な理解によって本質的存在を体験できます。
ここでこうして私は感情的な理解の開発法を教えています。
心を清めていくにつれて=「心理的集合体」を取り除いていくにつれて感情的な理解は(だんだん)開発されていきます。
最初は感情的な理解の単なる残留形態=初期形態だけが存在しても、エゴを崩壊させていくにつれて、この感情的な理解はますます純粋かつ有能になっていくでしょう...。
本質的存在を忘れず、清らかであるよう常に心理に気をつけましょう。
そのようにして本当に新たな「我」を創造しなくなるでしょう。
しかし私達が
本質的存在を忘れるかぎり、印象はマインドに到達し、「消化」されないままでしょう。
その時印象は新たに「我」に変わリ、さらに、有機機械の五つのシリンダーにすでに定着した「我」を強化するのは明白です。
★ 尊敬すべきマスター。たとえばときどき怒りの「我」が作用しているのを私達は感じます。
自分が怒っていて、それをもたらした出来事を理解しようとします。それでもその一方で、怒りの「我」は、
なんとかして観察しようとする思いに勝るので、自分の無力さを感じます。その場合私達に何ができますか。
★ 明らかに、五つのシリンダーにしっかり定着した怒りの「我」は、(この場合)機械全体をわが物にして、その主となりました。
しかしながら(確かにきわめて限定されているとはいえ)小さな解放の余地があります。
たとえるならば、
その余地は、バイオリンとその収納ケースの間に存在しうるのと同じくらい小さいと言えましょう。
実際きわめて限られているとはいえ、賢明に活用すれば広げることができます。
本質的存在の明白な自省(evident self-reflection of the being)に頼ります。
また自己観察にも頼む必要があります。
作用しているその怒りの「我」を観察します。
怒りに攻撃されている間に自己観察する時に、何かが、何か違ったものが脳に入って、そこを奪いとったことがわかります。
(自己観察によって)その現実を確かめたなら、明白な自省という別のステップに進むことができます。
そして明白な自省によって、怒りの悪魔に取りつかれたという結論にいたったなら、深い内的瞑想という第三ステップ(=本質的存在の明白な自省)に進めます。
瞑想をとおして最高の分析ができます.
その面に光を照射し、怒りがわきあがるためには何が起こったのか、そのことについてマインドをはっきりさせる必要があります。
そしてその怒りの「我」には別の起源がいくつかあることを、そのとき発見するにいたります。
(自尊心かもしれません。誰かに自尊心か傲慢かか虚栄心などを傷つけられたのかもしれません)。
こうしてもしその怒りの原因を発見するにいたるなら、その怒りは一時的で実体がないことをそのとき理解しますし、
もしその怒りが一時的で実体がないことを理解したなら、怒りを崩壊させる見こみがあります。
あとはそんな「心理的集合体」を崩壊させるようクンダリニー・シャクティに嘆願するだけでもう十分でしょう。
崩壊過程で援助してくれることを私は確信しています。それが進むべき、まぎれもない道なのです。
何か他にご質問は?
★ マスター。印象の変換つまり「消化」において、インスピレーション(霊感)はどんな役割を果たすのですか。
★ そうですね、イニシエイトの兄弟姉妹によればイニシエーションにいたる三つの段階があります。
すなわち
1.イマジネーション(想像)・
2.インスピレーション(霊感=深い意味の理解)
3.直観。(それが鍵です)。
兄弟姉妹はみなインスピレーションに満ちています(それは疑いありません)が、
インスピレーションと意識の客観化は別問題です。
インスピレーションを受けることがあっても「我」を崩壊させていないなら、
意識は客観的ではありません。
つまり
もし意識が客観的でないなら、インスピレーションを受けても、
だからといって悟りを開くわけではありません。
悟りを開くには「心理的集合体」を消滅させる必要があります。
「心理的集合体」を消滅あるいは崩壊させてはじめて、
私達に本当の客観的インスピレーションがわき、
客観的インスピレーションがイニシエーションの最高段階に
導いてくれるのです。
「心理的集合体」を崩壊させる必要があります。
もし
私たちが知覚を研ぎすまして警戒し、変わったこと、目新しいことに注意して生きていないなら、崩壊させることはできないでしょう。
テープ起こし:「サマエル協会」。
当協会はベネズエラ、スリア州マラカイボに設立された非営利団体で、ノーシス諸団体の世界連盟に仕えます。
マスター、サマエル・アウン・ベオールの講演・著作情報を伝えて、教義を教え、出版し、
メキシコ、スペイン、カナダ、合衆国、ベネズエラの養成センターを通して世界に提供します。